「チャップリン回顧録の巻」
・・・ Charlie Chaplin Review ・・・
チャップリンは、おそらくは、最も世界の映画界に影響を与えた人物。しかし何者も彼を継承し得なかったというユニークさにおいてもまた、最も特異な存在でした。 山高帽にちょびひげ、ドタ靴にだぶだぶズボン。小股で早足、左右に揺れる独特の歩き方。世界中がチャップリンの愛嬌に満ちた姿を見ては笑い、涙を流したのです。諧謔性の高い作風でありながらも、そこに怒りや暗さといった印象はなく、そこから屈託のない明るさを生んでいったというのは、やはり天才のなせる業なのでしょう。 が、一方で、チャップリンの作品が、質の割には高い評価を受けることが少なかったというのも不思議な事実です。特に後期の作品はメッセージ色が強く、思想要素が鼻につく作風であったことは否めません。それでもチャップリンの作品が世に出る度に世界の映画ファンは狂喜し、映画館に足を運んだのです。 後期の長編を除けば、さすがに今では懐古的に見るのが主で、あえて積極的に見る人は少ないかもしれません。昔は夢中になった筆者も、たまにBSで放映されているのを暇つぶしに見るくらいです。が、その度に、今でも斬新さを感じてしまうのには驚かされます。そんなことで思い立ち、本ページでチャップリンの偉業をちょっとだけ振り返ってみようと思います。 (* 以下、一部作品の結末に言及しています。ご注意ください)
●サイレント時代
1889年4月16日、ロンドンでチャップリンは舞台俳優の両親のもとに生まれました。兄は二つ上のシドニー。不幸にも家庭環境に恵まれず、父を幼くして亡くし、母は病弱。神経衰弱とも言われ、その入院時には孤児院に預けられたこともあったようです。極貧でもありましたが、子供の時から舞台に立つ機会には恵まれ、早くもその天才振りを発揮。人気の子役であったことが伝わっています。さらには欧米諸国の巡業で経験を積み、これが後の大成功に繋がっていくわけです。 やがて青年になり、そのアメリカ巡業中。すでに人気役者であったようですが、パントマイムは特に好評で、広く注目を浴びるようになります。それが映画プロデューサー、マック・セネットの目に留まり、1913年、キーストン映画へのエキストラ出演をきっかけに映画に転向することになるのです。 本格的な映画出演は1914年になってから。ごく初期の頃は脇役でしたが、「キャバレーご難の巻」で共同監督、次の[雨のご難」で始めて自作自演の作品を撮っています。このキーストン時代を経て、翌15年、より条件のいいエッサネイに移籍。さらにその後のミューチュアル時代までの4年間に60本以上の作品に出演しています。そのほとんどは10〜20分の短いドタバタ喜劇ですが、この間に、チャップリンは世界的な名声を手にし、知らぬ者がないほどになっていました。 1918年にはファースト・ナショナルに移籍。前代未聞の好条件だったと言われます。そしてチャップリンの真価を賞賛する声は、このファースト・ナショナル時代(〜1923)に強まります。それもそのはずで、この間、「犬の生活」、「キッド」、[偽牧師」といった後の作品にも勝るほどの名作を世に送り出しているのです。芸風も進化し、ダンスやバレエまで披露するようになっているのはおもしろいところ。独特の風刺とペーソスにも磨きがかかっていきます。
●サイレントからトーキーへ
チャップリンがユナイテッド・アーチスツの創立者の一人に名を連ねたのはちょっと意外なような気もします。チャップリンはすでに自由な映画製作を行っており、あえて企業の中枢で思い煩う必要があったのかどうか。いずれにせよ、さかのぼって1919年、当時の人気俳優ダグラス・フェアバンクスや名匠グリフィス監督らの呼びかけに応じ、ユナイテッド・アーチスツ社を旗挙げ。以降は時代の流れでもある長編作品に傾倒しますが、極端に寡作となります。これより遺作となる「伯爵夫人」までの四十数年間、世に出した作品はわずか10本に過ぎません。 その最初の仕事が「巴里の女性」(1923)。長年コンビを組んできたマドンナ役・エドナ・パーヴィアンスを主演にしたドラマでチャップリンが出演しなかった唯一の作品でもあります。エドナとチャップリンはどうも付き合っていたようで、コンビ最後の作品となった本作は、プレゼント的な意味合いもあったと言われています。 続く「黄金狂時代」(1925)からしばらく、チャップリンの円熟した作品が続きます。本作は、一攫千金を夢見てアラスカへ金堀に向かったチャップリンが、裏切りに遭い、飢餓や寒さに苦しみながらも明るく生きる姿を描いたもの。おかしなギャグが満載で、おもしろさという点では比類のない名作と言っていいでしょう。多くのファンが、前半のチャップリンの最高傑作に挙げています。ちなみにこの作品は、1942年にチャップリン自身の音楽を入れて再編集されています。チャップリンはみずからの作品のほとんどの音楽を担当。後には「スマイル」や「マンドリン・セレナード」など、みずから作曲でヒット曲をも生み出しています。 そして「サーカス」を経て「街の灯」へ。製作は1931年。トーキー映画がサイレント映画を凌駕しつつあった時代。ハリウッドのほとんどの作品がトーキーとして製作されるようになっていたと聞きます。そんな中、サイレントにこだわったチャップリンが発表したのが「街の灯」だったのです。しかし本作の評価は大変なもので、世界的なヒットとなりました。 盲目の花売り娘に恋をしたルンペンのチャップリン。その手術費用を工面しようと奔走し、ついに酔っ払いの金持ちから貰い受けることに成功。しかし酔いがさめた金持ちは記憶がなく、チャップリンは泥棒として捕まってしまいます。やがて出所したチャップリンは娘の様子をうかがいに行きます。そして最後、目が見えるようになった娘はルンペン姿のチャップリンを見ると、いくばくかのお金を手渡そうとします。そこで娘は気付くのです。この手のぬくもりが自分の救い主のものであることを。誰もがこの感動のラストシーンに酔いしれたことでしょう。本質は言葉ではない、言葉では表現できない。そんな言葉のない世界を活かし切った究極の映画であり、サイレント映画の頂点と言ってもいいように思います。この作品はまた、チャップリン映画ならではのドタバタ劇に美しいラブストーリー、と、新旧の顔を融合させた作品にもなりました。
●名声と批判
チャップリンの作品のメッセージ色は徐々に強まっていきます。1929年に始まった世界不況の影響もあったかもしれません。つづく「モダン・タイムス」(1936)は機械文明を強烈に皮肉った作品。これより三本(独裁者、殺人狂時代)が最も評価の高いチャップリン映画となりますが、本作もまた音楽付きのサイレント映画として製作されました。 ある工場に雇われたチャップリン。しかしその工場は機械だらけ。チャップリンは逆に機械に振り回され、ついに発狂してしまいます。スパナを持ち出しては何でもかんでも締めまくる姿には抱腹絶倒。機械文明の非人間性を風刺した作品ですが、一方では、孤児ポーレットとのちょっとした恋物語が見る者をほろっとさせます。 この頃になると感動を誘うロマンチシズムを加えたスタイルがすっかり定着。「モダン・タイムス」は抜群の安定感を見せます。が、社会派の顔ものぞかせるようになっていき、次第に批判を受けるようになっていきます。本作でも資本主義を皮肉っているようなところがあるのですが、その色調は次の「独裁者」(1940)でより明確な形となります。 チャップリンはこの作品で独裁者ヒンケルとユダヤ人床屋の二役を演じます。ヒンケルは明らかにヒトラーのことであり、当時ユダヤ人を排斥し、戦乱を撒き散らしていたヒトラーをあからさまに非難したものです。さらにはムッソリーニを模したナパロニまで登場。徹底的にこき下ろします。 この物語で、貧しい床屋のチャップリンはユダヤ人であるがゆえに星を付けさせられ、兵士に追い掛け回されます。しかしヒンケルそっくりであったことから間違われ、ひょんなことから演壇に立たされることに。"憎みあってはいけない" "人は助け合わねばならない" そして平和と友愛への叫びを映画の中で訴えることになるのです。実はヒトラーは1889年4月20日生まれ。チャップリンとはわずか4日違い。自分と同じちょびひげをつけた怪物がドイツにいる。チャップリンは運命的なものを感じたのかもしれません。 が、ドタバタ喜劇を捨てたわけではなく、地球儀を風船代わりにして踊る姿は後に多くのパロディを生みました。ストーリーにしても抜群のおもしろさと言っていいでしょう。しかし初めてのトーキー作品で強烈なメッセージを世界に発信した本作は、チャップリンのショッキングな一面を見せることになりました。そして次の「殺人狂時代」(1947)は、さらにショッキングな内容となります。 この映画に登場したチャップリンはこれまでのスタイルではありません。いやらしい口ひげになでつけた髪。こぎれいな紳士を思わせるチャップリン。が、実は保険金を目あてに次々と女性を殺していく悪魔のような男だったのです。本作でも終盤にはメッセージが託されます。 "一人殺せば悪者、百万人殺せば英雄" (One murder makes a villain, millons hero.) それは戦争という不条理さを浮き彫りにしたものでした。が、時代が悪かったというしかありません。ブラックな作風で作品としての評価は高い反面、当時吹き荒れた反共運動・赤狩り(レッド・バージ)の対象となってしまうのです。
●アメリカを去って ...
「ライムライト」(1952)は、チャップリンへの非難が強まる中で製作されました。大変な感動作として知られる本作はテーマ曲も有名になっています。落ちぶれた芸人カルベロは、ある日、将来を悲観して自殺しようとした踊り子テリーを助けます。そして身を削ってテリーを勇気付け、援助し、ついにテリーは舞台に立ち成功を収めるのです。 しかし相変わらずどん底の生活を送るカルベロ。そこでテリーは、カルベロのためにこっそりと舞台を用意します。はたしてカルベロは何十年ぶりかの満場の笑いをとり幸せをかみしめます。が、張り切りすぎたためにけがをしてしまい、それがもとで亡くなってしまうのです。ドタバタ喜劇から離れ、ヒューマニズムあふれるドラマへの直球勝負となった本作は涙モノの名作となりました。が、一方ではテンポの悪化を招いたともいえます。途中、蚤のサーカスを延々と写すシーンなど緩慢なシーンも目立ち、感動の傍らで寂しさを覚えた作品でもあります。 この間、実質アメリカを追われるかたちとなったチャップリンはスイスに腰を落ち着け、以降イギリスで制作活動をすることになります。その最初の作品が、アメリカを舞台にした「ニューヨークの王様」(1957)であったことは、はたしてチャップリンらしいと言えるのかどうか。表現手段としての映画を、あくまでもみずからの主張の手段として利用したと見れなくもありません。 チャップリンはある小国の国王。革命で国を追われアメリカに亡命しますが財産を持ち逃げされ一文無しに。みずから金策に走るもドジばかり。純粋ゆえにそれが仇となるところに悲哀をにじませます。内容はコマーシャリズムやマスメディアの虚実を皮肉ったものですが、映画の中には赤狩りをモチーフにしたシーンもあり、本作をアメリカ社会の虚飾と矛盾を風刺したものと拡大解釈する見方もできます。 すでに68歳にもなっていたチャップリン。それでもギャグの切れ味や各モチーフの着想のすごさは相変わらずです。さすがに往年の勢いは見られませんが、チャップリンの喜劇の復活を強く思わせる作品に世界中のファンが狂喜しました。 最後の作品は1966年の「伯爵夫人」(Countess の訳間違いか? 正しくは婦人または令嬢と思われる)で唯一のカラー作品。チャップリンはチョイ役にまわり、主演をソフィア・ローレンとマーロン・ブランドに託しました。かつてのドタバタ喜劇のチャップリンをほうふつとする動きをこの二人の名優が演じ、コミカルな面を強調。ラブコメディとしては佳作的な映画ですが、チャップリンの雄姿を見て感激。遺作となったこともあり、ファンには忘れられない作品となりました。
●時代の終わり
「ライムライト」のワンシーン。自分が愛した踊り子の若い夫に期せずして会い、チャップリン演じるカルベロは言います。「時とは偉大な作家だ ... いつも最後を見事にしめくくる」 (Time is a great author, ... always writes the perfect end.)、と。老人は身を引き、若者同士が新しい幸せを築く。その姿は哀しげながらも、その目は限りなく優しく温かい ... 。不朽の名シーンと言えます。カルベロとはチャップリン自身。どこまでも、自分を映画で表現することを恐れない人ではなかったでしょうか。 1977年、チャップリンは家族に見守られながらスイスで永眠。それは映画史の区切りという以上に、芸術の、あるいは文化のひと区切りでした。奇しくも二十世紀半ば、テレビの台頭を許すまで、チャップリンは映画の歴史そのものであったとも言えるのです。 喜劇王といわれるチャップリンですが、作品を見ればそれがチャップリンの一面に過ぎないことが分かることと思います。さらには、風刺、諧謔、ペーソス。チャップリン映画を形容する言葉によく使われます。しかしチャップリンは社会や人間の多様性を、面白おかしなシチュエーションの中で、真摯な目をもって浮き立たせています。常に人間の本質に根ざしているその見事さは、真の天才のみが達している領域なのだろうと思います。それがたちまちにして見る者の心を打ち、笑いや涙を誘うのでしょう。 この五年前(1972)、チャップリンに嬉しい出来事が訪れています。二十年ぶりに称賛と尊敬の念をもって、アメリカがチャップリンを受け入れたのです。チャップリンの映画は再び上映されるようになり、その偉大さが改めて再認識されるようになります。 トーキーを拒んでいた時期のチャップリン。映画は世界中みんなもの。言葉の通じない人に見てほしい、わかってほしい。そんな想いがあったと聞きます。せりふ偏重の今の時代だからこそ、チャップリンのサイレント映画に注目してみたい。そこにこそ映像表現の原点と本質がある、と信じて疑わない筆者です。筆者にとっては、どんなに古い、と言われても、やはりチャップリンは生涯忘れることのできない存在。このページを見て懐かしく想った方、あるいは興味を持った方、再びチャップリンの映画に触れてみてはいかがでしょうか。
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